高山寺中興の祖である明恵上人は、平家一門の武家に生まれましたが、幼い頃に父母を亡くしたことから神護寺に入り、仏道修行をはじめました。その後、東大寺で受戒し、華厳学を修めます。
密教と華厳を修めた明恵上人ですが、彼が貫いたのは、限られた宗派や教説にとらわれることのない、生涯をとおしての釈迦への信仰でした。2度のインド行きを企てる(結局、頓挫しましたが)など、釈迦への思慕と求道への思いはいくつもの逸話となって伝えられています。
真の仏弟子として釈迦に深く帰依した明恵上人のもとには、宗派やときには身分を越えて、多くの人が集まったそうです。
法然、栄西、道元・・・。仏教の新しい宗派が数多く生まれた鎌倉時代の、さまざまな宗派の宗祖たちとの交流も伝えられています。
当時の仏教界では、明恵上人は最も高名な一人だったそうです。にもかかわらず、ほかの宗祖たちほどには名を残していないように思います。その疑問にも執事が答えてくださいました。
その答は、明恵上人が宗派をつくらなかったから。けれど、宗派をつくらなかったからこそ、垣根を越えた交流が生まれたのだとのお話でした。
その無私無欲の徳行は、皇族や公家、武士から一般の民衆まで、多くの人の信仰と信頼を集めたといいます。
当時の高山寺は、多くの文化人が集うサロンのような場だったのかもしれません。
こうした交流やつながりがあって、高山寺には多くの文化財が集積されていきました。8点の国宝、1万2千点に及ぶ重要文化財など、高山寺に伝わる史料や文化財はどれも明恵上人ゆかりの品ばかりなのだそうです。
明恵上人の思いを継ぐ高山寺は、近年もなお、川端康成や白洲正子、河合隼雄などの文化人から愛される存在です。
執事のお話によれば、川端康成は自宅でも樹の上で座禅を組んでいたとか。あの高名な作家の、明恵上人に寄せる思いの深さに驚くばかりです。