伏見の新銘菓「伏見幕府」家康&秀吉と伏見城にちなんだ和菓子(七條甘春堂大手筋店)

伏見城にちなんだ新たな名物の和菓子が誕生!
伏見は様々な料理、和菓子に用いられる「寒天(かんてん)」発祥の地。
この伏見発祥の食材「寒天」を使って作られたのが新名物の和菓子「伏見幕府」です。
伏見を開いた秀吉、伏見で天下をとった家康、それぞれの天下人の馬印の焼印入りの皮で寒天を餡に含め円形に整えた中身を挟んだ最中です。
徳川家康・秀忠・家光の徳川三代将軍が伏見城で将軍宣下を受けていることから、江戸幕府発祥=伏見幕府との想いから命名されています。
伏見の歴史、また秀吉や家康に思いを馳せ、お召し上がりください。
「伏見幕府」は、伏見大手筋商店街にある七條甘春堂大手筋店のみ限定販売。
七條甘春堂は、東山七条通の三十三間堂すぐそばに本店を構え、お菓子でできた、食べられる抹茶碗「遊心一茶 抹茶器」で知られる和菓子店です。
※大手筋店のみ限定販売、七條甘春堂の他の店舗では購入できませんのでご注意ください。

包装紙には伏見城
個別包装には家康・豊臣の家紋

外箱の包装紙には「伏見幕府」の文字と、かつての伏見城のイラストとが描かれています。
箱の横側には、徳川家と豊臣家の家紋、徳川家康と豊臣秀吉、それぞれの馬印(うまじるし)が描かれています。
馬印とは、馬印は戦国時代の戦場で、武将が自身の所在を明示するため、馬側(うまわき)や本陣で武具の長柄(ながえ)の先に付けた印のこと。馬標、馬験とも記されます。
家康の馬印は「金扇(きんせん)」、秀吉の馬印は「千成瓢箪(せんなりびょうたん)」です。
箱入りとばら売りがあり、こ化粧箱入りは、6個と12個の2種類があります。単品ばら売りでの購入も可能ですが、箱代が無料なので、6個以上の購入は箱入りがお得になります。
最中の皮は、白と黒があり、黒い皮には墨の粉末が練り込んであります。
餡はきめ細やかで甘さ控えめの「こし餡」、形は烏羽玉(うばだま)のような円形をしています。
餡の中には、四角形の寒天が潜んでいます。
サクサクの皮、柔らかなこし餡、小気味良い寒天の食感が一体となって口の中に広がっていきます。
箱入り(6個・12個)で購入すると、最中「伏見幕府」への想いが記された書面が同封されています。
【伏見幕府について】
伏見は太閤秀吉の城下町と伝え語られています。
しかし、それは長い歴史の中で、わずか五年ほどのことです。
秀吉没後、関ヶ原合戦に勝利した徳川家康は伏見城を修築し、ここを畿内の拠点としたのです。
慶長八年には伏見城で将宣下を受け、ここに徳川幕府は始まりました。
家康が将軍在任中、最も長く滞在したのは伏見でした。
家康の時代が、伏見幕府と象徴的によばれることもあります。
慶長十年には徳川秀忠が伏見城で将軍宣下を受けます。
秀忠の将軍在位は十八年になりますが、
そのうち、通算一年は伏見城で政務を執りました。
三代家光の将軍宣下を最後に城下町伏見の歴史は幕を閉じます
交通の要衝であった伏見は宿場町として再生します。
十七世紀後半、その伏見で寒天の製法が定着し、新たな食材として広まりました。
宿場町が発祥の地である寒天を餡に含め、伏見を開いた秀吉、伏見で天下を取った家康、それぞれの天下人の馬印入皮で挟んだ最中「伏見幕府」。
江戸幕府発祥の地、伏見の歴史とともにご堪能ください。

寒天発祥の地・伏見

寒天は、中国から伝わった「ところてん」からできた偶然の産物です。
江戸時代、京都伏見の旅館・美濃屋の主人である美濃屋太郎左衛門(みのやたろうざえもん)が、薩摩藩主・島津光久が滞在した折に「ところてん」を戸外へ捨てたところ、夜の寒さで凍り、日中太陽の日差しで乾燥し、干物のようになりました。
試しに煮溶かして、冷やし固めてみると、海藻の臭みも無く、透き通ったものになりました。
一説によると「寒天」の名は、黄檗宗(おうばくしゅう)の開祖である隠元隆琦禅師が感銘を受け名付けたと言われています。
伏見区の御駕籠町を中心に寒天にまつわる史実や発祥の地とする伝承が多数存在することから、伏見が寒天の発祥の地として、令和2年(2020年)12月27日、京都市立伏見中学校の一角に「寒天発祥之地」の石碑が建立されました。
【京都市の駒札の説明文】
伏見での寒天製造は、18世紀初頭に編纂された『和漢三才図会』の石花菜(ところてん)の項に「城州伏見の里にて之製す」と寒天の説明があり、江戸時代初期には伏見で主に生産されていたことがうかがえる。
18世紀後半の伏見を紹介する「伏見鑑」には「元来、伏見にて作初る産物なり」とあり、伏見が寒天発祥であるとしている。
この他、同書には、御駕籠町(おかごちょう)に寒天仲間が置かれていたとある。また、大正時代にかけて、寒天を材料の一つとする練羊羹(ねりようかん)が伏見名物となっていた。
伝承として、薩摩の島津公への食事接待の際に偶然、製法が発見されたことや、黄檗(おうばく)万福寺の隠元和尚による命名、寒天発祥は美濃屋であるといったことなどがある。
特に美濃屋については土地台帳で、近代に御駕籠町に存在したことが確認できる。
このように、御駕籠町を中心に伏見には寒天にまつわる史実や、発祥の地とする伝承が多数存在し、これらを考慮すると、江戸時代、伏見が寒天の産地であったことは間違いなく、発祥の地とすることもほぼ確実である。
なお、近代以降は、冬の冷え込みがより厳しい、大阪府三島郡北部から京都府南桑田郡樫田村(現在の大阪府高槻市)、更には長野県方面に産地は移り、現在は伏見で生産されていない。
令和2年12月27日には有志により、御駕籠町に隣接する京都市立伏見中学校に「寒天発祥之地」の碑が建てられた。
★「寒天発祥之地」の碑の場所
※Googleマップ https://maps.app.goo.gl/a9TonjL7rnpcpK1P7

京都発祥で江戸で完成「最中」

和菓子の代表のひとつ「最中」は、平安時代にその原型ができたとされています。
宮中で催された月見の宴で、歌人で学者の源順(みなもとのしたごう)が「水の面に照る月次を数ふれば今宵ぞ秋の最中なりける」と詠んだ折、煎餅のような丸くて白い餅菓子が出され、
それを見た公家たちが「最中の月」と名付け、そのまま菓子の名前になったと伝えられています。
「最中の月」とは、中秋の名月=十五夜の満月のことを指しています。
江戸時代になり、江戸吉原の煎餅屋「竹村伊勢」が、もち粉を水でとき、円形に焼成して砂糖をまぶした菓子を「最中の月」名付け販売。 その後、餡を挟んだものを「最中饅頭」として売り出され、これが略され「最中」と呼ばれるようになったとされています。

4つの顔を持つ町・伏見

伏見城の城下町、伏見港の港町、名水が湧き出る酒どころの町、東海道五十四番目の宿場町と様々な顔をもつ京都の南の玄関口。
豊臣秀吉は天下を治める拠点として伏見城(指月城・初代木幡山城)を築き、続く徳川家康、さらに秀忠・家光の徳川三代も伏見城(二代目木幡山城)で征夷大将軍の宣下を受けるなど、安土桃山時代から江戸時代初期、伏見(桃山)は日本の実質的な首都の役割を持つ町でした。
その名残として、桃山町正宗、桃山町島津、桃山町松平筑前など、戦国大名ゆかりの町名が残っています。
また、日本で初めて「銀座」が開設され、政治だけではなく経済の中心地でもありました。
伏見港は、京都の水運の拠点で物資の集積地であり、大阪から淀川を行き交う三十石船で運ばれた物資が荷揚げされ、小舟や牛馬に積替えられ、高瀬川の水運、竹田街道の陸運で京の町へと運ばれていた物流のターミナルでした。
明治時代には、琵琶湖疏水の一部である「鴨川運河」が完成し、琵琶湖とも結ばれ、日本最大規模の内陸河川港になりました。
伏見はかつて「伏水」とも記されるほどに良質な地下水が豊富に湧き、兵庫の灘、広島の西条と並び「日本三大酒どころ」です。
現在も半径約2km圏内に20を超える酒蔵が集まる「日本酒の町」として全国に知られています。

(情報提供:とっておきの京都プロジェクト事務局)

スポット情報

エリア名伏見
スポット名七條甘春堂大手筋店
所在地京都市伏見大手筋新町5丁目509-1 大手筋2番街
営業時間10:00~19:00
定休日1月1日 ※臨時休業の場合あり
アクセス京阪本線伏見桃山駅から徒歩3分、近鉄京都線桃山御陵前駅から徒歩4分
TEL075-621-6100
URLhttps://7jyo-kansyundo.co.jp/