小野小町のもとには、数え切れないほどの恋文が届いたことでしょう。その恋文を、小町は燃やすことも捨てることもしませんでした。男たちの想いのこもった手紙です。それを小町は仏像の内側に貼り付けて供養しようとしたのです。これが隨心院に伝わる「文張地蔵尊」の由来です。
美女ゆえか、男たちを冷たくあしらう高飛車な女と、嫉妬も含んだ描写をされがちな小町ですが、実は情の深い女性だったのかもしれません。
また、晩年の小野小町の姿を表したとされる「卒塔婆小町坐像」も遺されています。これは鎌倉時代、恵心僧都の作と伝わります。
晩年の小町は、どこでどのように過ごし、どんなふうに死んでいったのか、実は謎に包まれています。確かな史料は残っていないのです。ただ、若く美しいまま死んでいったのではなく、醜く老いて、孤独と貧困のなかで晩年を過ごしたという話ばかりが伝わっています。
「卒塔婆小町坐像」も、そう。絶世の美女の面影をそこに追うことはできません。ただ、その顔はもの悲しくも悲壮感はなく、悟りきった微笑みを見て取ることはできないでしょうか。
同じ部屋では、十二単をまとって少しだけ振り向いた小町の姿を描いた白描画も観ることができます。帝の更衣として宮中に上がっていた頃でしょうか。それとも役目を終えて、この小野の地の邸宅で余生を過ごしていた頃でしょうか。
さまざまな姿で描写される小町ですが、どの姿にも、後世の人の小野小町に寄せる憧憬のような思いの深さを感じてしまいます。
夏の頃、「奥書院」へ向かう途中の坪庭に、少し変わった花をつける桔梗が咲くそうです。
青紫の5枚の花弁を持ちながら、ぷっくりと膨らんだ状態のまま開くことなく朽ちていくそうです。その花は、誰とも添い遂げることなく、ただひとつの恋も咲くことのなかった小野小町にちなんで「小町桔梗」と呼ばれます。