僧侶のご案内でめぐる 小野小町ゆかりの隨心院 特別拝観ツアー

女子ゴコロくすぐる小町伝説と
千年の由緒に彩られた隨心院へ

京都市の南東部・山科区に小野という地域があります。そこは、飛鳥時代から平安時代にかけて活躍した小野一族が、平安時代に拠点としていたとされる場所です。飛鳥時代の遣隋使・小野妹子、平安時代の官僚でこの世とあの世を往き来したと伝えられる小野篁など、名を知られる人物が多い小野一族ですが、なかでも最も有名なのは小野小町でしょうか。

古代エジプトの女王・クレオパトラ、唐の玄宗皇帝の寵妃・楊貴妃とともに世界三大美人のひとりに数えられる小野小町は、絶世の美女とたたえられた平安時代の歌人。百人一首でもおなじみです。

そんな小野小町ゆかりのお寺として知られる山科の隨心院では、僧侶にご案内いただきながら、ふだんはできない拝観や体験ができるとのこと。最大6人という少人数での定員制だから、境内の見所や文化財、小町ゆかりのスポットなどの説明を聞きながら、ゆっくり巡ることができそうです。

さっそく予約して、隨心院を訪れました。

「雨僧正」仁海僧正が開いた
古寺が起源

市営地下鉄小野駅から歩いて6~7分。旧街道沿いの住宅地に佇む総門をくぐって境内へ。玄関は唐破風の付いた建物「庫裏」で、こちらが拝観受付。当日の集合場所でもあり、小野小町を描いた屏風が迎えてくれます。

ちなみにこの建物は、二条家の政所だったものが江戸時代に移築されたのだそう。もとは台所で、「吹き抜けが高いのは、煙が抜けるようにつくられた名残なんですよ」とおっしゃっていました。

隨心院は、真言宗善通寺派の大本山。弘法大師空海から数えて8代目の弟子にあたる仁海(にんがい)僧正によって正暦2年(991)に開かれた、牛皮山曼荼羅寺(ぎゅうひさんまんだらじ)がその起源です。

仁海僧正はある夜、亡き母が牛に生まれ変わっていることを夢のなかで知りました。その牛をようやく探し当て、飼養しましたが、ほどなく死んでしまいます。これを悲しんだ僧正は、牛の皮に両界曼荼羅の尊像を描き、本尊としました。
これが牛皮山曼荼羅寺という古名の由来で、牛皮山という山号は現在も受け継がれています。

仁海僧正はまた、「雨僧正」とも呼ばれていたそうです。
高い徳と法力のもと、請雨(しょうう)の法に優れていたようで、天皇の命により神泉苑において何度も雨乞いの修法を行いました。その数なんと9回。しかも、そのたびに雨を降らせることに成功したといいます。
「雨僧正」は、そんな仁海僧正への尊敬と親しみを込めた呼び名だったのかもしれません。

「薬医門」と「表玄関」に
門跡寺院としての歴史を知る

その後、第5世増俊(ぞうしゅん)阿闍梨のときに、曼荼羅寺の子房(しぼう・僧侶の住まい)として隨心院を建立。
さらに鎌倉時代の寛喜元年(1229)、第7世親厳(しんごん)大僧正の代に後堀河天皇から「門跡」の宣旨を賜ります。以来、「隨心院門跡」と呼ばれるようになり、伽藍も次第に整備され、繁栄の時代を迎えました。

京都の寺院の例に漏れず、隨心院も承久の乱、応仁の乱によって、境内のことごとくを焼失してしまったそうです。しかし、桃山時代の慶長4年(1599)に本堂が再建されると、それ以後は九条・二条両摂家から門跡が入山し、両摂家によって寄進、再建がなされていきました。

そんな隨心院の軌跡の説明を聞きながら、「表玄関」へ。
「薬医門」から続くこの玄関は、皇族や勅使、門主などだけが使うことができるそうで、ふだん、「薬医門」は閉じられています。
「薬医門」から「表玄関」、「表書院」と続く建物は、江戸時代の寛永年間(1624~1631)に九条家ゆかりの天真院尼の寄進により建てられたものだそうです。

門横の築地塀に、地面と平行にラインが入っています。その意味を尋ねたところ、「塀の横線は寺格を表します。最大は5本。隨心院は門跡寺院なので、もちろん5本ですよ」と教えてくださいました。

「表玄関」から「薬医門」を望むと、門の向こうには敷地の外と隔てるように梅園や木立が広がり、時代や場所を見失ったような錯覚を覚えます。
「薬医門周辺や北側の長屋門のあたりは、映画やドラマの撮影によく使われるんですよ」とのお話に納得。江戸時代や戦国時代のお屋敷でしょうか。
「本能寺が登場するお話はとくに多いようです」。エンドロールのクレジットを確認するのも楽しそうです。

榧の木にまつわる
小町の悲恋物語

「表玄関」には大きな木の切り株が置かれています。これは「小町榧(こまちがや)」の切り株。小野小町ゆかりの榧(かや)の木です。

多くの男性に思いを寄せられたという小町伝説のなかでも、とくに有名なのが深草少将との悲恋の物語「百夜通い(ももよがよい)」です。

帝の更衣(こうい)としての役目を終え、山科・小野の地で暮らしていた小町のもとに、深草に住む少将から幾度も文が届くようになりました。「百日間、一夜も欠かさずこの屋敷を訪ねてくれたなら、あなたのお心のままになりましょう」。そう返事をしたところ、深草少将は毎夜毎夜、深草から山科まで通い始めます。訪れた証しに榧の実をひとつ、門前に置いて。

やがて榧の実が60、70と増える頃、小町は少将の訪れを心待ちにするようになっていきます。

小町の手元には99の榧の実。あとひとつで100個の実がそろう、100日目の夜が訪れました。小町は心はずませて門を開け、少将を迎える準備をしたことでしょう。
ところがそこに少将の姿はなく、榧の実も置かれていませんでした。

100夜目は、大雪の夜でした。深草から小野までの道すがら、行き倒れた少将の手には榧の実がひとつ、握りしめられていたといいます。

深草少将の命がけの恋を失った小野小町は、99個の榧の実をひとつずつ小野の里に蒔きました。それはやがて大木に成長し、隨心院の「表玄関」に置かれているのは、その1本の切り株なのだそうです。

「表書院」で
江戸のトリックアートを体験する

狩野派の絵師によって描かれた「樹下双鶏図」「波に鶴図」などの杉戸を開けて、「表書院」へ。ここは皇室など位の高い方をもてなす、いわば応接間のような場所。

「表書院」には「四季花鳥図」と「四愛図」、2つの襖絵があります。ふだんは畳廊下から柵越しにのぞき込むようにしか拝観できませんが、このプランでは室内に入って「四愛図」を間近に見ることができるのです。

実はこの「四愛図」という襖絵は“だまし絵”になっていて、室内で拝観しないとそのトリック効果をほんとうに楽しむことができないそうです。

さっそく室内に入り、近づいたり離れたりしながら拝観。“だまし絵”となっているのは、そのなかの一枚です。
「絵のなかの机を見ながら、ゆっくり右の方へ移動してみてください」との説明にならい、右へ歩きながら見てみます。なんだか机の形が変わったような・・・。

「横長の机が、キュッと短くなったように見えませんか? なかには見えづらい方もいらっしゃるようですが」。
遠近感が変化するなんて、どのように描かれているのでしょう。狩野派の絵にこんな遊び心のある作品があることを知りました。
まさしく「一見の価値」ある襖絵です。

小町の一生を描く現代の襖絵
「極彩色梅匂小町絵図」

「能の間」では「極彩色梅匂小町絵図(ごくさいしきうめいろこまちえず)」の襖絵が、広い空間を、まさに匂い立つばかりに華やかに彩ります。
2人組の絵描きユニット・だるま商店により平成21年(2009)に制作、奉納された襖絵は、その華やかで鮮やかな極彩色の彩りと、小野小町の数奇な一生を描いた幻想的な意匠とで、フォトジェニックな襖絵としてSNSでも人気です。

やはり一番に目を引くのは、基調となっている鮮やかなピンク色。「はねず色」というそうです。

「はねず」とは薄紅色の古名。オレンジがかった薄紅色のことで、唐棣、唐棣花、棠棣、朱華などと書くそうです。その華やかさから、個人的には「朱華」の字が気分。
隨心院には境内に梅園があり、その梅の花は「はねずの梅」と呼ばれるそう。梅の開花時期に合わせ、3月下旬に「はねず踊り」が行われます。
「やはり隨心院的には、この色はピンクや薄紅ではなく“はねず色”なのです」とおっしゃっていました。

襖絵は4枚からなっており、左から右へ向けて小野小町の一生が描かれています。
画面のあちらこちらに白いシルエットで描かれているのが小町です。これは死後の小町が昔を振り返っている様子を表しているそう。

制作に当たってはほんとうに多くの資料に当たり取材をされたそうで、1枚1枚にさまざまな逸話や伝説が散りばめられ、そしていろいろな意味が込められています。
仁明天皇に見初められたエピソードに、ハートの矢で射貫かれている深草少将の姿、はねず踊りの子どもたち・・・。よく見ると、楊貴妃、クレオパトラとともに世界三大美人も描かれています。
また、雲に乗って空をゆく小町の絵に「小野小町」という4文字が隠されていたり、襖絵全体のあちこちに「心」という文字が散りばめられていたり・・・。

襖絵についての僧侶の解説を聞きながら、小町の数奇な人生や、さまざまに語られる伝説を、襖絵のなかに見つけ、読み解いていく。そんな楽しみ方を体験できます。

目の前で仏像を拝観するという
贅沢で特別な時間

慶長4年(1599)に再建された本堂は、寝殿造りの優美な姿。こうした様式のお堂は少し珍しいということです。

さて、今回のプランで楽しみにしていたひとつが、特別に本堂の内陣まで入らせていただき、仏像をほんとうに近くで拝観できるというもの。

僧侶に案内されて、ご本尊をはじめとする10体の仏像がズラリと安置された内陣まで進みます。目の前、わずか1mほど。手を伸ばせば届きそうな(もちろん触れてはいけませんが)至近距離です。

ご本尊の如意輪観世音菩薩坐像を中心に、両脇に、阿弥陀如来坐像と金剛薩埵(こんごうさった)坐像が安置されています。この3体は国の重要文化財です。
令和2年(2020)に重文指定を受けたばかりのご本尊は秘仏であり、本来は厨子のなかに安置されています。お目にかかれるのは、期間限定の特別ご開帳の時だけ。

ご本尊を実際に拝観できないのは残念でしたが、平安時代後期や鎌倉時代といった同時期につくられた仏像のほか、弘法大師像や、隨心院の前身である曼荼羅寺を開いた仁海僧正の像など1体1体について丁寧に解説していただきながら、薄明かりのなかでじっくり拝観できるというのは、めったにできない体験。特別な時間を楽しめました。

ところで、内陣の右端には、厨子がもうひとつ置かれています。こちらに収められているのはなんですか?と尋ねたところ、隨心院はもともと修行道場だったので、護摩の際に使用する不動尊や軸などが収めてあるとのこと。
「不動さまが2体になってしまうので、1体は厨子のなかに収めさせていただいているんですよ」と教えてくださいました。
そういえば、弘法大師像の隣で不動明王像が威厳をはなっていました。

美しさと才覚ゆえに生まれた
さまざまな小町伝説を想う

小野小町のもとには、数え切れないほどの恋文が届いたことでしょう。その恋文を、小町は燃やすことも捨てることもしませんでした。男たちの想いのこもった手紙です。それを小町は仏像の内側に貼り付けて供養しようとしたのです。これが隨心院に伝わる「文張地蔵尊」の由来です。

美女ゆえか、男たちを冷たくあしらう高飛車な女と、嫉妬も含んだ描写をされがちな小町ですが、実は情の深い女性だったのかもしれません。

また、晩年の小野小町の姿を表したとされる「卒塔婆小町坐像」も遺されています。これは鎌倉時代、恵心僧都の作と伝わります。

晩年の小町は、どこでどのように過ごし、どんなふうに死んでいったのか、実は謎に包まれています。確かな史料は残っていないのです。ただ、若く美しいまま死んでいったのではなく、醜く老いて、孤独と貧困のなかで晩年を過ごしたという話ばかりが伝わっています。

「卒塔婆小町坐像」も、そう。絶世の美女の面影をそこに追うことはできません。ただ、その顔はもの悲しくも悲壮感はなく、悟りきった微笑みを見て取ることはできないでしょうか。

同じ部屋では、十二単をまとって少しだけ振り向いた小町の姿を描いた白描画も観ることができます。帝の更衣として宮中に上がっていた頃でしょうか。それとも役目を終えて、この小野の地の邸宅で余生を過ごしていた頃でしょうか。

さまざまな姿で描写される小町ですが、どの姿にも、後世の人の小野小町に寄せる憧憬のような思いの深さを感じてしまいます。

夏の頃、「奥書院」へ向かう途中の坪庭に、少し変わった花をつける桔梗が咲くそうです。
青紫の5枚の花弁を持ちながら、ぷっくりと膨らんだ状態のまま開くことなく朽ちていくそうです。その花は、誰とも添い遂げることなく、ただひとつの恋も咲くことのなかった小野小町にちなんで「小町桔梗」と呼ばれます。

今回の取材では、「小町桔梗」のお花が見られなかったので、隨心院さんから満開のお写真をお借りしました。例年だと7月が見頃だそうです。季節のお花を愛でに、今度は、夏に訪れてみたいものです。

狩野派の襖絵を「奥書院」でも

「表書院」が特別な方を迎えもてなす場とすれば、「奥書院」は日常的なおもてなしの部屋。ここでも多くの狩野派の襖絵を見ることができます。

「表書院」の襖絵と比べると落ち着いた印象を受けるのは、人物画が多いからでしょうか。「舞楽図」「宮廷人物図」「賢聖障子絵」、そしてこちらは動物の「竹虎図」。

隨心院は小野小町ゆかりのお寺ですが、「表書院」「奥書院」の狩野派の襖絵に加え、「能の間」の「極彩色梅匂小町絵図」という現代の襖絵まで、室内を飾るさまざまな絵画作品を見比べるという贅沢も楽しむことができました。

隨心院ならではの体験
「文張供養」と「小さな恋の和歌」

小野小町は想いを寄せてくれた人のことを思いながら、もらった恋文を仏像に貼り付けていました。「あの人は今、幸せでいるだろうか」と。

そんな小町にならい、かつて想いを寄せてくれた人を思い出しつつ手紙を書く、「文張供養」を体験。文張地蔵ポストに投函した用紙は、後日隨心院で供養してくださるそうです。

小町の和歌が書かれた「小さな恋の和歌」おみくじも引きました。これは持ち帰ることができます。

「文張地蔵」を追体験したあとで読む、小野小町の恋の和歌。
昔、想いを寄せてくれた相手を思い返しながら、「今はどうしているだろう」と思いを馳せることの、恥ずかしくも心あたたまる、少し不思議な体験ができました。

2つの結末を持つ「百夜通い」
小町の物語を音で旅する

庫裏からスタートして、回廊で結ばれたそれぞれの建物をひとめぐり。ぐるりと一周して庫裏に戻り、しめくくりに、このプランのためだけの御朱印と「SOUND TRIP」のカードをいただきました。 御朱印は、「極彩色梅匂小町絵図」のなかの小町が文張地蔵に文を張っているシーンを使用した、特別限定御朱印。はねず色に乗った墨の文字も鮮やかな、素敵な御朱印です。 「SOUND TRIP」は、風の音、鳥の声、建物の音といった隨心院の環境音を採集し、小野小町をテーマにアーティストが創りあげた、隨心院オリジナル音楽。さっそくスマホに読み込み、「能の間」の前に広がる庭を眺めながら聴いてみます。 美しく切ないピアノの音色がベースの2曲を聴くことができ、どちらも小町と深草少将の恋物語がテーマなのだそう。 小町榧の切り株を見ながら聞いた「百夜通い」の物語。実はこのお話にはもうひとつの結末があって、それは、こっそりと従者を通わせていたことが100夜目に発覚し、「しょせん男なんてこんなものね」と小町が愛想を尽かしてしまうというもの。小町の物語を伝える伝統行事「はねず踊り」では、こちらの、クスリと笑ってしまうエピソードが唄われています。 小町の物語を聞き、「卒塔婆小町」や「文張地蔵」の伝説を知ったあとに聞く、悲恋の物語と笑い話のようなお話のそれぞれをイメージさせる2つの曲。 さて、私は、そしてあなたは、どちらの曲に心惹かれるのでしょう。

\記事のプランを体験できます/

今回紹介したプランを体験したい方は、下記より事前にご予約いただけます。
※一部変更または季節により一時中止となる場合があります。

スポット情報

エリア名山科
場所隨心院
所在地京都府京都市山科区小野御霊町35
アクセス京都駅→(JR京都線/約5分)→山科駅→〈乗換〉→山科駅→(地下鉄東西線/約6分)→小野駅下車 徒歩約5分
特別拝観期間2020年12月1日(火)~2020年12月27日(日)
(12月13日・22日・24日・25日は除く)
2021年1月18日(月)~2021年1月31日(日)
拝観時間①10:00~11:00(6名定員)
②14:00~15:00(6名定員)
※所要時間:約60分
料金おとな・こども共 おひとり様 3,000円
※当日、受付時に現金でお支払いください。
TEL075-571-0025(隨心院)

(掲載日:2020年11月16日 取材:とっておきの京都プロジェクト

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