玉田神社 聖武天皇ゆかり火難除けの神馬「火鎮」@京都久御山 

玉田(たまた・たまだ)神社は、社伝「日本最初方除八社大明神略記」にると、奈良時代の和銅3年(710年)に元明天皇の勅願により創建されたと伝えられている古社。
桓武天皇が長岡京・平安京に遷都する際、玉田神社の祭神に鬼門除けの伺いを立てたことから方除けの神様として、神社が鎮座する玉田の森にあった御牧(天皇直轄の牧場)から宮中へ献上された馬が宮中の火災を知らせ、身を挺して鎮めた逸話にちなみ火難除けの神様として信仰されています。
創建当初の御祭神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)、経津主命(ふつぬしのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)の四神であったが、鬼門除けの勅願により、誉田別命<応神天皇>(ほんだわけのみこと)、仲哀天皇、神功皇后、武内宿祢命(たけのうちのすくねのみこと)の四神を勧請して八神となったと伝えられています。
現在、武甕槌命、天児屋根命、誉田別命<応神天皇>、武内宿祢命の四柱を御本殿にお祀りしています。


※御本殿
※拝殿
本殿は南面し、四間社流造、向拝一間の銅板葺。柱や桁など軸部に江戸時代の築材が残り、実肘木(さねひじき)に江戸初期の特徴を残しています。
本殿および末社市杵社・一の鳥居・二の鳥居は、平成30年(2018年)3月に国の登録有形文化財に登録されました。
安土桃山時代の天正14年(1586年)5月に御牧城主・御牧勘兵衛尉尚秀が願主となり社殿を再建。
その後、江戸時代の寛永元年(1624年)に淀城主・板倉伊賀守高勝ならびに御牧八郷氏子惣中によって社殿の造営が行われました。

神馬「火鎮」伝説

玉田神社は、火難除けの神様として信仰を集めており、その由来となったのが、神馬「火鎮(ひしずめ)」の伝説です。
三十八代宮司 従五位下野口伊勢守重為が、神社に伝わる故事を記した「玉田大明神火難除 御霊験名馬火鎮由来」の版木によると以下の通りです。
聖武天皇の御代、左大臣橘諸兄公は玉田の森にあった御牧より一頭の馬を宮中に献上しました。
ある時、その馬がしきりにいななき続けるので、人々は不思議に思っていたところ、3日後に宮中で火災が発生しましたが発見が早く大事には至りませんでした。
数日後、再び馬が3日間いななき続け、その3日後に内裏が火災に包まれるほどの大火災となりました。
すると馬は、くつわ(※)を強く繋いであったにも関わらず、くつわを抜きすざましい勢いで厩舎を飛び出し、紅蓮(ぐれん)の炎の中に飛び込んでいきました。
すると不思議なことに紅蓮の炎はたちまち静まり、しばらくすると馬は煙の中より現れると静かに厩舎へと帰っていきました。
聖武天皇は、希代の名馬であるとして、詔勅により「火鎮」名付け、玉田大明神の化身の神馬として元の御牧の地に返されました。
この話を伝え聞きいた地元の人々は、奇特な名馬であると讃え、火難除(かなんよ)けの神馬として大切に扱い、永眠後は名馬にふさわしい塚を作り、 長く火鎮のことを伝えました。
玉田神社には、その伝説が記された石碑が建ち、炎の中に飛び込む火鎮の図が刻まれています。

神馬「火鎮」にちなんだ御守

玉田神社では、神馬「火鎮」にちなんだ多彩な御守・御朱印・おみくじなどを授与しています。
なかでも、御霊験名馬火鎮の「うまみくじ」が参拝者に人気。おみくじは陶器で出来た白馬の中に納まっており、御牧に見立てた牧場のジオラマに置かれています。
火鎮をイメージして作られてた白馬には朱色の黄金色の鞍に玉田神社の社紋である「橘紋」が記され、足元には紅蓮の炎が描かれています。
ほかにも「火鎮」を模った根付御守りや、珍しいお守りとして、火難除けをSNS での炎上と結びつけ、トラブルや誹謗中傷から守ることを祈願して「SNS炎上除ステッカー御守」を授与しています
ステッカー形式で、スマートフォンやタブレット、パソコンなどに貼って炎上から身を護ります。

(情報提供:とっておきの京都プロジェクト事務局)

エリア名久御山
スポット名玉田神社
所在地京都府久世郡久御山町森宮東1番地
拝観料境内自由
アクセス京阪中書島駅、近鉄京都線大久保駅から京阪京都バス25系統乗車、まちの駅イオン久御山店前下車徒歩15分
※バス停前のまちの駅クロスピア久御山にはレンタサイクル(有料)があります
TEL075-631-2183
URLhttps://www.tamada-jinjya.com/
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